- 2026.3.16
- 古井脳神経外科
- 投稿者:院長 古井 倫士
母は筆者の幼い頃ピアノを習わせようとしたらしいが厭がってうまくいかなかった.
いま想えば素直に従うべきであった.
年を重ねるにしたがってクラシック音楽を背中でぼんやりと聴くのも安らぎだと気付き,まして自分で奏でられたなら人生の後半ももう少し優雅になったかもと,時すでに遅きを悔いるのである.
ピアノではなくギターあたりの手頃な楽器ならいまからでも遅くはないか.
ギターはピアノと同じ弦楽器であっても,バイオリンのように難儀な弓さばきを要求されない.
ギターの起源を探すと紀元前の古代ペルシャにあったとされるバルバレットあるいは3~6世紀ごろのササン朝ペルシャ時代に登場したウードあたりまで遡るのが一般的なようである.
物事の始まりをどこにとるかはなかなか難儀で,例えばヒトの始まりを原始人にするか猿とするか,はたまたアメーバ?まで遡るべきなのか.ギターについても同じことで,狩猟に使う弓を打つところまで遡るべきだとの意見もあるかもしれないが,似通った形態を基準にするとそのようなことらしい.
これらがルネサンス期までに西に伝わってリュートなり,東にはシルクロードを経て琵琶となり奈良時代のわが国にも伝わったとされる.
ちなみに,バルバレットもウードも普及した地域での呼び名を違えただけで現代に知られているリュートとほとんど同じ違い形態のものであったようだ.
リュートは9世紀から中世 14 世紀ごろにかけてイベリア半島からヨーロッパに伝わり16 世紀には形を変え現代の呼称ギターとなる.

ただし,このころはまだ8弦で17世紀の10弦(バロックギター),18 世紀の4または5弦のギターラを経て 19 世紀初頭にスペインで現在の6弦スペインギター(いわゆるクラッシックギター)が登場する.
ギターの活躍する名曲と問われればおおかたのひとは 1896 年にフランシスコ・タレガの作曲による『アルハンブラの思い出』や1939 年ホアキン・ロトリーゴによる『アラーフェス協奏曲』を挙げるかと思うのだが,いずれもスペインの歴史的名所をテーマにしている.
道理である.
リュートは胴の平坦さを残してギターとなったのだが,胴の丸みを残してより小型化されてマンドリンになる.
17 世紀前半にイタリア人のパロッキやヴィナッチャらの手を経て4コース8弦の現在の形状になったという.
マンドリンは小型ゆえに音量に限りがあるためなのか,19 ~ 20 世紀にかけてアンサンブル(合奏団)を組んでの演奏するのが流行する.
また,マンドリンより大きめのマンドラやマンドローネなどが工夫され,ギターも加えての合奏も行われるようになった.
マンドリンの繊細な音色の連続(トレモロ奏法)だけでは曲の深みに欠けるためにやや緩徐な音色のギターが加えられたのであろうか.
ギターやマンドリンがわが国に伝わるのは明治維新以降のことである.
文明とともに西洋の芸術,なかでも音楽に輿味をもったひとびとがイタリアやアメリカからギターとマンドリンを持ち帰ったのが 19 世紀後半から20 世紀初頭だといわれている.
そして,明治の末期には慶応義塾大学や同志社大学にマンドリン倶楽部が結成される.
前述したイタリアでの試みに合致してそれらの集まりはマンドリンだけではなくアンサンブル楽器としてギターも多少は加わっていたようである.
マンドリン倶楽部は知名の古賀政男が明治大学で結成したのが最初であると聴かされた憶えがあったのだが,調べてみるとそれは 1923 年(大正 12 年)のことで,慶応義塾や同志社での結成のほうが先であったようだ.
1923 年には東京や地方の主要都市に結成されていた 20 ほどの団体が集まり全国マンドリン合奏団コンコルソと称する大会も催される.
マンドリンにしてもギターにしても一応の演奏ができるまでにはそれなりの練習が要求されるのは当然としてもバイオリンやチェロなどにおける弓使いの試練は義甲(羅)のピックや指の存在が免除してくれる.
独奏はともかくも合奏となると幼少からの練習の積み重ねなくしてもあるていどの体裁を整えられそうだし,音色や楽器そのもののもつ庶民的な雰囲気も手伝ってのことなのだろうか,戦後にも多くの大学に同好の組織が登場する.
1957 年(昭和 32 年)には先輩の努力によってわが母校の大学にもそれらの仲間たるクラブが結成される.
戦後の 1952 年(本邦では 1953 年)に『禁じられた遊び』というフランス映画が封切られる.
怪しげな題名だが覚醒剤の嗜好とは関係ない.
フランソワ・ボアイエの小説を原作とする世界大戦で孤児となった少女と偶然出会った少年との幼い交流を哀しさ漂わせて見せる作品である.
そのテーマ音楽には 19 世紀後半に作曲された『愛のロマンス』が選ばれ,ギターの名手ナルシソ・イエペスが編曲のうえ演奏した.
物悲しさを可憐に奏でる『愛のロマンス』は戦後の団塊世代である筆者の耳にも届いていたのでおそらく 1953 ~ 1960 年代にラジオやテレビでしばしば流されていたのだろう.
我が書棚の片隅を探すとその譜面が残っていた.
そこには『第三の男』の主題歌の譜面も折り重なっていた.
『第三の男』は本邦では 1952 年に封切られたイギリスのサスペンス映画で,ギターの奏でるその主題曲も若き筆者の記憶の一部として残された.
どちらでもよいのだが自らの指で奏でられたら愉快であろうと無謀にも楽譜を入手したのを思い出した.
実は 1968 年(昭和 43 年)春から筆者は母校のギターマンドリンクラブの一員であった.
一員であったとは指揮者に従って合奏に寄与していたと誤解させる雰囲気を漂わせるなら,ただギターを担いで加わっていただけというほうが正確な言い回しかもしれない.
入部当初は先輩が手ほどきをしてくれるが,いつまでもという訳にはいかない.
どこもかしこも体温と一致する気候に席巻される現代と異なり,夏休みでもまだ涼しさを感じさせる長野に合宿して演奏の練習を重ねる行事もあったが,参加したりしなかったり.
かといってひとり譜面を辿る努力もお座なりであった.
それでも,音楽を好む優しさの漂うクラブであったから年1回の定期演奏会には末尾で参列させてもらえた.
そんななか,ときには『愛のロマンス』か『第三の男』の譜面を辿ったはずだが,残念ながらいずれも数小節で頓挫した.いまはもっと悲劇的で,居並ぶ音符はドなのかミなのか,どの弦のどこを押えるのか,一向に記憶が蘇らない.
もっと熱心に練習しておくべきであった.
「後悔先に立たず」はしてしまった言動を悔いる意のようだが,しなかったのを悔いるのは何といえばよいのだろう.
家内に促されてクラシック音楽を聴いているうちに後悔の種が復候その数を増すことになった.

いま想えば素直に従うべきであった.
年を重ねるにしたがってクラシック音楽を背中でぼんやりと聴くのも安らぎだと気付き,まして自分で奏でられたなら人生の後半ももう少し優雅になったかもと,時すでに遅きを悔いるのである.
ピアノではなくギターあたりの手頃な楽器ならいまからでも遅くはないか.
ギターはピアノと同じ弦楽器であっても,バイオリンのように難儀な弓さばきを要求されない.
ギターの起源を探すと紀元前の古代ペルシャにあったとされるバルバレットあるいは3~6世紀ごろのササン朝ペルシャ時代に登場したウードあたりまで遡るのが一般的なようである.
物事の始まりをどこにとるかはなかなか難儀で,例えばヒトの始まりを原始人にするか猿とするか,はたまたアメーバ?まで遡るべきなのか.ギターについても同じことで,狩猟に使う弓を打つところまで遡るべきだとの意見もあるかもしれないが,似通った形態を基準にするとそのようなことらしい.
これらがルネサンス期までに西に伝わってリュートなり,東にはシルクロードを経て琵琶となり奈良時代のわが国にも伝わったとされる.
ちなみに,バルバレットもウードも普及した地域での呼び名を違えただけで現代に知られているリュートとほとんど同じ違い形態のものであったようだ.
リュートは9世紀から中世 14 世紀ごろにかけてイベリア半島からヨーロッパに伝わり16 世紀には形を変え現代の呼称ギターとなる.

ただし,このころはまだ8弦で17世紀の10弦(バロックギター),18 世紀の4または5弦のギターラを経て 19 世紀初頭にスペインで現在の6弦スペインギター(いわゆるクラッシックギター)が登場する.
ギターの活躍する名曲と問われればおおかたのひとは 1896 年にフランシスコ・タレガの作曲による『アルハンブラの思い出』や1939 年ホアキン・ロトリーゴによる『アラーフェス協奏曲』を挙げるかと思うのだが,いずれもスペインの歴史的名所をテーマにしている.
道理である.
リュートは胴の平坦さを残してギターとなったのだが,胴の丸みを残してより小型化されてマンドリンになる.
17 世紀前半にイタリア人のパロッキやヴィナッチャらの手を経て4コース8弦の現在の形状になったという.
マンドリンは小型ゆえに音量に限りがあるためなのか,19 ~ 20 世紀にかけてアンサンブル(合奏団)を組んでの演奏するのが流行する.
また,マンドリンより大きめのマンドラやマンドローネなどが工夫され,ギターも加えての合奏も行われるようになった.
マンドリンの繊細な音色の連続(トレモロ奏法)だけでは曲の深みに欠けるためにやや緩徐な音色のギターが加えられたのであろうか.
ギターやマンドリンがわが国に伝わるのは明治維新以降のことである.
文明とともに西洋の芸術,なかでも音楽に輿味をもったひとびとがイタリアやアメリカからギターとマンドリンを持ち帰ったのが 19 世紀後半から20 世紀初頭だといわれている.
そして,明治の末期には慶応義塾大学や同志社大学にマンドリン倶楽部が結成される.
前述したイタリアでの試みに合致してそれらの集まりはマンドリンだけではなくアンサンブル楽器としてギターも多少は加わっていたようである.
マンドリン倶楽部は知名の古賀政男が明治大学で結成したのが最初であると聴かされた憶えがあったのだが,調べてみるとそれは 1923 年(大正 12 年)のことで,慶応義塾や同志社での結成のほうが先であったようだ.
1923 年には東京や地方の主要都市に結成されていた 20 ほどの団体が集まり全国マンドリン合奏団コンコルソと称する大会も催される.
マンドリンにしてもギターにしても一応の演奏ができるまでにはそれなりの練習が要求されるのは当然としてもバイオリンやチェロなどにおける弓使いの試練は義甲(羅)のピックや指の存在が免除してくれる.
独奏はともかくも合奏となると幼少からの練習の積み重ねなくしてもあるていどの体裁を整えられそうだし,音色や楽器そのもののもつ庶民的な雰囲気も手伝ってのことなのだろうか,戦後にも多くの大学に同好の組織が登場する.
1957 年(昭和 32 年)には先輩の努力によってわが母校の大学にもそれらの仲間たるクラブが結成される.
戦後の 1952 年(本邦では 1953 年)に『禁じられた遊び』というフランス映画が封切られる.
怪しげな題名だが覚醒剤の嗜好とは関係ない.
フランソワ・ボアイエの小説を原作とする世界大戦で孤児となった少女と偶然出会った少年との幼い交流を哀しさ漂わせて見せる作品である.
そのテーマ音楽には 19 世紀後半に作曲された『愛のロマンス』が選ばれ,ギターの名手ナルシソ・イエペスが編曲のうえ演奏した.
物悲しさを可憐に奏でる『愛のロマンス』は戦後の団塊世代である筆者の耳にも届いていたのでおそらく 1953 ~ 1960 年代にラジオやテレビでしばしば流されていたのだろう.
我が書棚の片隅を探すとその譜面が残っていた.
そこには『第三の男』の主題歌の譜面も折り重なっていた.
『第三の男』は本邦では 1952 年に封切られたイギリスのサスペンス映画で,ギターの奏でるその主題曲も若き筆者の記憶の一部として残された.
どちらでもよいのだが自らの指で奏でられたら愉快であろうと無謀にも楽譜を入手したのを思い出した.
実は 1968 年(昭和 43 年)春から筆者は母校のギターマンドリンクラブの一員であった.
一員であったとは指揮者に従って合奏に寄与していたと誤解させる雰囲気を漂わせるなら,ただギターを担いで加わっていただけというほうが正確な言い回しかもしれない.
入部当初は先輩が手ほどきをしてくれるが,いつまでもという訳にはいかない.
どこもかしこも体温と一致する気候に席巻される現代と異なり,夏休みでもまだ涼しさを感じさせる長野に合宿して演奏の練習を重ねる行事もあったが,参加したりしなかったり.
かといってひとり譜面を辿る努力もお座なりであった.
それでも,音楽を好む優しさの漂うクラブであったから年1回の定期演奏会には末尾で参列させてもらえた.
そんななか,ときには『愛のロマンス』か『第三の男』の譜面を辿ったはずだが,残念ながらいずれも数小節で頓挫した.いまはもっと悲劇的で,居並ぶ音符はドなのかミなのか,どの弦のどこを押えるのか,一向に記憶が蘇らない.
もっと熱心に練習しておくべきであった.
「後悔先に立たず」はしてしまった言動を悔いる意のようだが,しなかったのを悔いるのは何といえばよいのだろう.
家内に促されてクラシック音楽を聴いているうちに後悔の種が復候その数を増すことになった.

(エスエル医療グループニュース No.171 2025年12月)
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