- 2026.7.21
- 中川内科
- 投稿者:院長 中川 順市

スティグマとイナーシャという言葉は一般的には耳慣れないかもしれません。
日本語にするとスティグマ(stigma)は「負の烙印」、イナーシャ(Inertia)は「惰性、慣性」と訳すとわかりやすいと思います。
最近、この 2つの言葉は医療業界の中ではしばしば耳にするようになり、さらには、職場なども含めた社会全体の問題としても注目されています。
1.生活習慣病におけるスティグマ
生活習慣病は、高血圧、糖尿病、脂質異常症、肥満などを指し、1996 年に「成人病」から名称変更されました。
しかし、この「生活習慣病」という語感が、“生活がなっていない”“食べ過ぎや不摂生が原因”“自己管理ができていない”といった不適切なイメージを連想させ、患者さんに偏見が向けられることがあります。
患者さんにとっては、まさに「負の烙印=スティグマ」を押されることとなり、その結果、自己責任を強調される生きづらさを様々な場面で味わうことになり、就学・就職・結婚などで不利益を受ける例も報告されています。
さらに、スティグマを恐れるあまり、患者さんが生活習慣病であることを隠してしまい、適切な治療の機会を逃し、結果として合併症を発症してしまう可能性もあります。
糖尿病を例に見ると、かつては「糖尿病の人は寿命が短い」と言われていました。
しかし近年は治療が大きく進歩し、糖尿病患者さんの平均死亡年齢は着実に上昇しています。
最新の大規模研究(2011 〜 2020年)でも、糖尿病患者さんと一般人口の平均死亡年齢の差は縮小しており、その背景には、血糖を良くするだけでなく心臓や腎臓を守る作用を併せ持つ薬の登場、体重管理にも役立つ薬の普及、合併症の早期発見、血糖管理の質の向上などがあると考えられます。
こうした進歩により、今では「糖尿病とともに長く健やかに生きる」ことが現実的になってきたと感じます。
生活習慣病は、体質・遺伝・環境・社会経済状況など、さまざまな要因が重なって発症します。
また、忙しさやストレス、貧困によって安価で高カロリーな食品に頼らざるを得ない状況など、個人の努力だけではどうにもならない背景も大きく影響します。
そのため、生活習慣病を短絡的に「自己責任」で語ることは、科学的にも倫理的にも正しくありません。
社会全体で誤解を解き、患者さんが安心して治療を受けられる環境を整えていくことが求められると思います。
2.生活習慣病におけるイナーシャ
生活習慣病におけるイナーシャとは、患者さん側・医療者側のいずれか、あるいは双方の「惰性」や「慣れ」、時には「忖度」によって、患者さんが本来の治療目標に達していないにもかかわらず、適切な対応が行われない状況を意味します。
医療の場でこうした治療の停滞が生じることを、クリニカル・イナーシャと呼びます。
高血圧症を例に挙げると、わが国には約4,300万人の高血圧患者がいると推定され、国民全体の収縮期血圧が平均4mmHg下がれば、脳卒中で年間約1万人、冠動脈疾患(心筋梗塞など)で約5千人の死亡が減るとされています。
高血圧の治療は“今を治す”のではなく、将来の脳卒中や心筋梗塞を防ぐ、いわば“将来を治す”治療です。
将来のために、まさに今から適切な血圧コントロールに取り組むことがとても大切です。
ただ、最新のガイドライン(2025)では、目標血圧を診察室で130/80mmHg 未満、家庭血圧で125/75mmHg未満と示していますが、現状では、日本の高血圧の人々の中で治療を受けているのは約半数にとどまり、目標血圧に達しているのはそのさらに半数程度だと言われています。
その原因として、患者さんが薬をきちんと続けるのが難しい場合もありますが、患者さん側だけでなく、医療者側に生じるクリニカル・イナーシャも
大きく関わっていると指摘されています。
その背景には、①血圧が目標に近いと「まあ良いか」と考えてしまう心理、②下げすぎへの懸念、③白衣高血圧(診察室だけ血圧が高くなる状態)や仮面高血圧(診察室では正常だが家庭では高くなる状態)における目標判断の難しさ、④費用負担への配慮、さらには⑤スティグマによる患者さんの遠慮など、複数の要因が絡み合っていると感じます。
国際研究においても、日本の血圧コントロール率は先進国の中で依然として低いことが示されており、クリニカル・イナーシャの影響が大きいと考えられます。
3.生活習慣病におけるスティグマ、クリニカル・イナーシャへの対策
これらの課題に対処するためには、行政やメディア、産業界や学会が正しい情報を発信し、医師・看護師・薬剤師・管理栄養士などのチーム医療で患者さんを支えることが重要だと思います。
また、かかりつけ医が最新のガイドラインに基づき、遠慮や慣れに流されず、必要に応じて治療内容を見直す姿勢も大切だと考えています。
4.まとめ
生活習慣病診療では、スティグマとイナーシャを常に意識し、患者さんの背景に寄り添いながら、科学的根拠に基づいた治療を進めていくことが求められると感じます。
自分や病気を責めるのではなく、共に向き合い、安心して治療を続けられる社会を作っていくことが、これからの医療の大切な役割だと思います。
(エスエル医療グループニュース No.172 2026年4月)
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